はじめに
「おとなになりたくない人間」が増えているといわれています。会社へ行きたがらない新入社員、卒業したがらない大学生など、いつまでたっても自由気ままな子どものままでいたい気持ちは、今の青年に多かれ少なかれあるのではないでしょうか。
若い女性に多い拒食症も「成熟への嫌悪」が関係しているといわれています。
これは欧米にもみられる社会現象で、特に1970年代後半からアメリカでも「おとなになれない男性」が社会問題となり始め、これを「ピーターパン・シンドローム」と呼んでいます。
ピーターパンは、おとな社会から「ないない島」に冒険に出て、ここで遊ぶ永遠の少年です。みなさんの周囲にも1人や2人、このピーターパン・シンドロームの男性がいるかもしれませんね。
また小此木(1981)は、青年のみならず現代人には、いつまでも社会的な自己を確立しようとしない心理構造があるとして、これを「モラトリアム人間の時代」と称しています。小此木によると、モラトリアム人間とは、「あれかこれか」型の生き方よりも「あれもこれも」型の生き方を選び、自分の生き方に柔軟である反面、社会に対しては当事者意識に乏しく、お客様的で何事も一時的なかかわリ方しかせず、自分のすべてをかけることを回避する人間です。
さて,この「モラトリアム」という用語ですが、これはエリクソンという精神分析学者が、「自我同一性」という概念を提唱した際に用いたものです。
自我同一性とは
「自我同一性」はエリクソン(Erikson,E.H.)が提唱した「egoidentity」(エゴ・アイデンティティ)の邦訳です。
自我同一性の概念は、一般的には「自分とは何か?」という問いに対する答えであるといわれていますが、ここではもう少し詳しく説明したいと思います。
この概念は、主観的意識体験を重視したものといわれています。つまりエリクソンはこれを「自我同一性の感覚」と表現しています。この自我同一性の感覚とは、「内的な不変性と連続性を維持する各個人の能力が、他者に対する自己の意味の不変性と連続性とに合致する経験から生まれた自信のこと」と定義されています。
一見難解な定義ですが、この定義のなかで重要な点は3点あります。
まず最初は、内的な不変性と連続性ということです。これは、わかりやすく説明すると「自己の生育史から一貫した自分らしさ、自分は何者でもない自分である、そしてその自分は過去か
ら現在そして将来も不変である」ということです。
第2点は、そういった自己が他者によっても認められているということです。自分が理解している自分の姿が社会のなかでも同じように認められ、位置づけられているということなのです。
そして最後にもう1つ重要なことは、自我同一性が「感覚」であるということです。これは上の2点が、頭で理解できているのではなく自己確信として感じられ、意識されているということなのです。エリクソンによればこれは、「身体がくつろいでいる感じ」「自分がどこへ行こうとしているのかわかっているという感覚」ということです。
この自我同一性の感覚が、確かに自分のなかにできあかっている時、これを自我同一性の形成といいます。
さて、エリクソンは自我同一性の形成を青年期の発達課題としてとらえました。青年期は人生のなかでも自己に目が向き、自分の性格や対人関係に悩み、将来を模索する時期です。エリクソンは青年期を「それまでのさまざまな経験の中から見つけだしてきた自分というものを統合する年代」と考えたのです。しかし、青年期に統合された自我同一性も、その後は変化しないというわけではありません。さまざまな人生経験を積み重ねるなかで自我同一性は修正されながら、一層確固としたものになっていくのです。
「自我同一性」という概念の変遷
1950年代、エリクソンは青年期の発達課題として「アイデンティティ」という概念を提唱しました。
エリクソンは「人間とは社会との相互作用の中で発達する存在である」とする基本的立場から、アイデンティティという概念も「心理・社会的(psycho-social)」概念として位置づけたのです。
その後、1980年代を中心とした心理学研究において扱われた自我同一性や、世間に広まったアイデンティティという言葉は、むしろ「自己への関心」に焦点づけられたものでした。さらに「自己愛」という概念の流行とも相まって、いつのまにかアイデンティティは「他者とのかかわり」を回避した、自己中心的概念であるかのような誤解すら生じかねない用語として広まっていきました。
しかし1990年代に入り、アイデンティティ形成とは自己と社会との間の「相互調整(mutu-alregulation)」の過程であることが、改めて再認識されるようになってきました。
いったんは自己中心的概念へと向かった流れが、1990年代後半から再びエリクソンの原点に返り、「社会との関係からとらえるアイデンティティ」概念へと方向転換を示している現代といえ
るでしょう。
同一性拡散
青年期において自我同一性の統合がうまくいかなかった場合、自我同一性の拡散と呼ばれる状態に陥るといわれています。
これは「自分が何であるかわからなくなってしまった」「自分がバラバラに感じられる」などの状況です。この同一性拡散(identity diffusion)の状態に陥ると、その程度によっては日常の生活に支障をもたらすような症状となって表われてきます。
モラトリアム
同一性の拡散ではないものの、いまだ自我同一性が形成されていない段階を「モラトリアム(moratorium)」といいます。
このモラトリアムという用語は、もともとは経済用語で「猶予期間」という意味です。青年期はさまざまな体験-いろいろなアルバイトをしたり、友人と将来のこと、異性のこと、勉強のことを語り合ったり、気ままな旅行にでたりーのできる時期です。
人間はそんな青年期の体験を通して、自分自身のことを考え、将来に思いを巡らせ、人生を価値あるものとしていくことができるのです。
エリクソンはこの時期を社会的な義務や責任を最小限に猶予されて、自我同一性形成のためにそういったさまざまな経験をすることを、社会から認められた期間として「モラトリアム」と称したのです。
職業的同一性
さて同一性とは、職業・価値観・性・宗教・政治・家族などそれぞれの領域における同一性の統合であり、包括的概念であるといわれています。
そのなかの職業的同一性とは「職業人としての自己をどのように決定し、それにどのようにかかわっているか」ということであり、「職業をとおしての自分らしさを確かめ、自分らしさを生かし育てていく職業的姿勢」(園田ら,1987)のことです。特に女性が「職業人としての自己」を考えるとき、母親としての自己や妻としての自己との間で葛藤が生じたりすることは、しばしば認められることです。
園田ら(1987)によると、女性において職業的同一性の高い人は、全体的な自我同一性も高く、職業に対する満足感も高いということです。またその満足感は、職場の人間関係や精神的満足感に帰するところが大きく、給料の高さなどによるものではないということです。
これから職業に就く人や現在職業に就いている人も、「職業人としての自己」にどの程度満足しているのか、あるいは危機を経験しているのか、ときに自問してみるのも大切なことでしょう。
エリクソンの発達理論
フロイトの指摘以来、幼児期の生活史が大人になってからの神経症などの心の問題に、大きく影響していることが知られています。
その発達的な観点を幼児期だけでなく、人間の一生の発達の過程ととらえなおしたのがエリクソンです。
彼はその発達し変化していく過程をライフ・サイクル(人生周期)と呼びました。エリクソンの発達理論は、心理学の分野のみならず、教育や看護など、人間を対象とするさまざまな領域で重視されています。この理論の主な特徴を紹介しましょう。
- 人間は、常に社会(取り巻く環境)との相互作用のなかで発達していくものである。
- 人間は、生まれてから死に至るまで生涯にわたって発達するものである。
- 人間の一生は8つの発達段階に分けられ、各段階には固有の発達課題がある。
- 発達は前段階の発達課題の達成を基盤にして、次の発達段階へ進むものである(漸成的発達)。
発達課題
エリクソンは発達課題を各段階における心理・社会的危機としてとらえ、課題解決の成功と失敗の両極端として表しています。
つまり課題の達成とは、その両極端で表される葛藤をバランスよく解決することといえます。たとえば青年期の発達課題は「同一性対同一性拡散」ですが、同一性の危機を体験し、葛藤状態を乗り越えて真の同一性が達成されるということなのです。
段階 | 心理学的危機 | 好ましい結果 | ||
---|---|---|---|---|
1 | 乳児期前期
(O~1歳) |
基本的信頼対不信 | 信頼と楽観性 | |
2 | 乳児期後期
幼児期前期 (1~3歳) |
自律性対恥・疑惑 | 自己統制と適切さの感じ | |
3 | 幼児期後期
(3~6歳) |
積極性対罪悪感 | 目的と方向:自分の活動を開始する能力 | |
4 | 児童期
(6~12歳) |
勤勉性対劣等感 | 知的・社会的・身体的技能の有能さ | |
5 | 青年期
(12~19歳頃) |
同一性対同一性の拡散 | 自己を独自な人間として統合したイメージをもつこと | |
6 | 成人期初期
(20~30歳頃) |
親密性対孤立 | 親密で永続する関係を形成し,生涯を託するものを決める | |
7 | 壮年期
(30~65歳頃) |
生殖性対沈滞 | 家族,社会,未来の世代への関心 | |
8 | 老年期
(65歳~) |
統合性対絶望 | 充足と自分の生への満足感 |